「どうしたの?」
キルシュが訊くが、ファオルはすぐに答えず、静謐が訪れる。「本当にどうしちゃったの? ファオル今日は変よ?」
──昨晩の事をもしかして気遣っているの? キルシュが近付いて屈んで訊く。ファオルは首を振りキルシュを見上げた。
『ねぇ。キルシュはさ……何があっても、どんな風になったとしても、ケルンをずっと愛し続ける?』訊かれた言葉にキルシュは硬直した。
「何を言っているの……それは勿論。きっと。自分の気持ちに素直になったけど、私は彼の事が好きよ。ずっと一緒にいたいって思っているわ」
ありのままの本心を言うが、途端にキルシュの心に靄がかかった。
……ずっと一緒にいたい。その気持ちだって偽りは無いが、彼は人ではない。ずっとなんて、永遠なんてありえるのだろうかと。無いだろうと。分かりきっていた答えが散る。ふと昨日の言葉が頭に過る。
いつかは恋人ではなく、それ以上に。永遠を意味するような言葉を言おうとして……唇を塞がれ〝それは……いつか男の俺から、はっきりと言えたらいいな〟と。 決して断定ではない、いつも堂々とした彼にしては曖昧な答えだった。それを、まじまじと思い出したキルシュの心は緩やかに熱を失い始めた。
まるで〝甘く幸せな魔法〟が解けてしまうかのよう。 靄を広げるように、不安が広がり始めてしまった。(これ以上、何も言わないで。私は何も知りたくない)
心が酷くズキズキと痛み始める。自然と視界が歪み、ファオルが霞んで見える。 キルシュは胸元を押さえて、今にも泣きそうな面輪でファオルを呆然と見下ろした。『キルシュはさ、失われた記憶を全部取り戻して、全部受け入れる覚悟ってある? ケルンがどんなになったとしても愛する事ができる? それができないなら──』──ケルンをまた忘れる覚悟はある?
続けて身体の芯まで凍りついたような寒さに、シュネははっと意識を取り戻した。途端に感じるのは埃の臭い。 寝台の上に寝かされていた事に気づき、シュネはゆったりと身を起こした。 吐く息は真っ白だった。自らの身体を抱き締めるように身体を摩り、目の前を見て、シュネは絶句する。(…………ここは) 自分を閉じ込める部屋の前には鉄格子──立ち上がり、周囲を見ればどこまでも続く長い廊下が広がっていた。一定の間隔で、火を入れた壁掛けの燭台が設置されているが、灰色の石造りの空間には窓が無いので、余計に寒々しかった。 恐らく地下監獄。そして、この光景は既視感がある。〝忘れもしない心的外傷〟が自然と結び付き、シュネの顔は一瞬にして真っ青になった。 ……過去に後ろめたい事をした覚えはあった。けれど、なぜ今こうなったのだろう。どうして私は、こんな場所に〝連れ戻された〟のだろう。 寒さか恐れか。震えるシュネの唇からはカチカチと歯の鳴る音が絶え間無く響く。 今朝はいつも通りにレルヒェの街に降りた。買い物を終え、痛みの森へ戻ろうとしたその時──人気の無い路地で、複数の男に背後から羽交い締めにされた。 暴漢など、自分の力で一掃できる自身はあった。だが、ほんの一瞬だった。ぴりっとした痛みを感じた途端に自由を奪われ、口に布を当てられた瞬間に意識を失い──今に至る。 だが、この場所は……。シュネの脳裏には凄惨な記憶の数々が散る。 シュネが痛みの森に住んでいるのは、もう帰る場所も行く宛ても無いから。そして、〝ある人物〟から逃げ出した為であった。 農作が盛んな国境に面した辺境地とは言え、ヴィーゼ伯爵領は決して寂れた田舎ではない。レルヒェ地方の中では、人口も多く賑わいもある。だからこそ、隠居の身は街中でも自然と溶け込む事ができたのだ。(どうして……私、なんで。そんな……どうしよう) とにかく、逃げなくてはならない。何を
「どうしたの?」 キルシュが訊くが、ファオルはすぐに答えず、静謐が訪れる。「本当にどうしちゃったの? ファオル今日は変よ?」 ──昨晩の事をもしかして気遣っているの? キルシュが近付いて屈んで訊く。ファオルは首を振りキルシュを見上げた。 『ねぇ。キルシュはさ……何があっても、どんな風になったとしても、ケルンをずっと愛し続ける?』 訊かれた言葉にキルシュは硬直した。「何を言っているの……それは勿論。きっと。自分の気持ちに素直になったけど、私は彼の事が好きよ。ずっと一緒にいたいって思っているわ」 ありのままの本心を言うが、途端にキルシュの心に靄がかかった。 ……ずっと一緒にいたい。その気持ちだって偽りは無いが、彼は人ではない。ずっとなんて、永遠なんてありえるのだろうかと。無いだろうと。分かりきっていた答えが散る。 ふと昨日の言葉が頭に過る。 いつかは恋人ではなく、それ以上に。永遠を意味するような言葉を言おうとして……唇を塞がれ〝それは……いつか男の俺から、はっきりと言えたらいいな〟と。 決して断定ではない、いつも堂々とした彼にしては曖昧な答えだった。 それを、まじまじと思い出したキルシュの心は緩やかに熱を失い始めた。 まるで〝甘く幸せな魔法〟が解けてしまうかのよう。 靄を広げるように、不安が広がり始めてしまった。(これ以上、何も言わないで。私は何も知りたくない) 心が酷くズキズキと痛み始める。自然と視界が歪み、ファオルが霞んで見える。 キルシュは胸元を押さえて、今にも泣きそうな面輪でファオルを呆然と見下ろした。 『キルシュはさ、失われた記憶を全部取り戻して、全部受け入れる覚悟ってある? ケルンがどんなになったとしても愛する事ができる? それができないなら──』 ──ケルンをまた忘れる覚悟はある? 続けて
遠くから柱時計の鐘の音が聞こえる。 ボーン、ボーン……とした一定のリズムは七回・八回を通り越し、十一回目を聞いた時、キルシュの意識は覚醒した。「へ……今、何時」 ひんやりと冷えた部屋。窓の外は淡い日差しが溢れている。 見るからにいつもの起床時間ではない。「うそ、嘘でしょ!」 キルシュは、慌てて身体を起こし上げるが、自分が一糸纏わぬ姿だった事で昨晩の事を思い出してしまった。床に脱ぎ散らされたナイトドレスに下着……それらに羞恥がじわじわと込み上げる。 しかし今は狼狽えている余裕なんて無い。キルシュはそれらを纏うと、急ぎ部屋を飛び出した。 幾重ものレースをあしらった裾を摘まみ上げ、キルシュは廊下を全力疾走して階段を下る。柱時計の針は既に午前十一時を指していて……寝坊も本当に良い所。 台所は案の定、蛻の殻だった。 食卓の上には癖も無い美しい書体で『お寝坊さん、ちょっと市場へ行ってきます。たまにはゆっくり休んでね』と書かれたシュネの置き手紙が置かれていた。 竈に置かれた鍋の蓋を開けてみればスープは既にできていて、棚の黒いパンも幾らか切られて食卓に置かれていた。(ああ……ごめんなさい、シュネさん) どうしようも無い程の罪悪感を背負いながら、キルシュはとぼとぼと踵を返した。 そうして改めて着替えをしようと、いつもの民族衣装を引っ張り出し、ナイトドレスを脱ぐ。だが、キルシュは姿見で自分の身体を見て、一瞬にして真っ赤になった。 そこには、昨晩の名残がきちんと残っている。 胸元に首筋、太股の内側と柔らかな箇所にケルンの口付けた跡が赤々と残っていたのだから。まるで赤い花。それは、もはや男女の交わりを彷彿させるもの。 自然と昨晩の出来事が、脳裏に散った。 溺れる程の口付けを与えられ、何度も唇を食まれて、舌を絡め合った。 甘やかではあ
視線を向ければ、先程の穏やかな面とは打って変わり、シュネは眉間に深い皺を寄せた厳しい顔付きでケルンを射貫いていた。「……ねぇ、ケルン。貴方、弱ったキルシュちゃんを抱いたの?」 まさに想定通りの反応だった。きっと、不浄だと、最低だと、弁えろと……仮にも偶像の使徒という立場を言われる事くらい安易にできた。 何せ彼女は聖職者の娘だ。そういった部分に厳しい意見を持っているに違いない。否、女性としての立場で咎めるのは、きっと当たり前だとケルンも分かっていた。 腕を掴むシュネの手はやけに冷たい。それだけで彼女が力を制御できない程に怒気を孕ませている事をケルンは理解できた。 きっと〝無責任な事をするな〟と言いたいのだろうと。 「……無論、潔白とは言わない。ただ、キルシュが具象を枯らして泣いていたから一晩中傍にいた。あとは、全部なりゆきだ。ただそれだけだ」 ケルンは淡々と事実を淡々と述べる。対してシュネは『そう』と冷ややかに言い放つと悩ましそうにこめかみを揉んだ。「貴方は神秘の存在。キルシュちゃんも世捨て人。だから、婚前交渉が良くないだの言う国教なんて関係ないわ。だから、なりゆきでそういう行為をしたとしても、私には一切咎める筋合いは無いの。好き合っているもの同士だもの。ただね。弱った女の子に漬け込むような事していないかは心配になるのよ。昨晩キルシュちゃん相当弱っていたでしょう?」 尤もな事だ。ケルンは目を細めて頷いた。 「合意は得ていた。でもシュネが言うのは一理ある」 ケルンが素直に言うと、シュネは深くため息をつき首を振るう。「具象の件は、私が自然物を操れるって教えたのが発端。その時に本の中に植物の命を奪い枯らす力があるって知って、こうなったのかも知れないけど……キルシュちゃんその件、その後大丈夫なの?」シュネが心配げな面輪を見せたので、ケルンはすぐに頷いた。 「大丈夫だ。落ちついたら自分で原因を解明していた。キルシュはとてつもなく賢いよ」 その答えに、シュネは瞑目し安堵したような面輪を浮かべていた。 それから仕切り直すように、一つ息をつき、シュネは再びケルンに向きあった。 「……あとね。私が何より気になるのは、貴方があまりにも冴えない顔をしているからよ。
何度も角度を変えて唇を食み、舌を絡めて頬や首筋を撫でる。 彼女の脚の合間に身体を割り込ませ、身を擦り寄せると小さな身体は大袈裟な程にぴくぴくと震え上がった。 そうして幾何か。甘く深い口付けから解放し、キルシュの表情を見下ろすと小さな唇から舌をちらりと出したまま。若苗色の瞳は蕩けており──どこか甘く淫靡な色香を感じる面輪に、無機物にはそぐわぬ情欲が腹の奥から湧き立った。 それと同時に込み上げるのは、切ないほどの愛おしさで……。 長い間恋し続けた運命の幼馴染み。そんな彼女は、ベッドに組み敷いた直後に〝永遠〟を言わんとした事をすぐに察した。 しかし、それは不透明だった。否、無理だと分かっていた。 もう終わるのだ。じきに終わりを迎えるのだ。 分かっていて堪らなくなり苦しくなり、思わずその唇を塞ぎ貪るような口付けを与えてしまったのである。 残酷で、最低で、酷い男としか言えないだろう。自己嫌悪もあるが、愛情を止めるのはもう無理だった。 たとえ、別れに向かう再会だとしても、愛すなという方が無理だった。「俺は幸せだ。なぁキルシュ、それは……いつか男の俺から、はっきりと言えたらいいな」 断言なんてできない。あくまで希望、そして胸の奥から溢れる切なる願いだった。 キルシュの前髪を撫でて、ケルンはやんわりと笑んだ。 ──そんなキルシュは、蕩けた面輪のままではあるが、どこか物悲しげで切ない面輪を浮かべていた事は、ケルンも分かっていた。 *** 凜と冷たく暗い空間に、ボーン……と柱時計は六つ目の鐘の音を鳴らし終えた。 朝を迎えたにも関わらず、空は夜とさして変わらぬまま。シャツを羽織りながらケルンは窓辺で外の雪景色をぼんやりと眺めていた。 (随分積もったな……) ほぅと息をつけば、白煙が立つ。 そうして着替え終えると、ケルンは踵を返しベッドで眠るキルシュを愛おしげに見つめた。
キルシュの頬はみるみるうちに赤々と染まり、震える手のひらからは薄紅の小花が萌え始めた。 その態度で想像した事を察したのだろう。ケルンは目を細めて、唇にニタリと弧を描く。何だか狡猾そうな顔で、どこか嗜虐的な色を含んでいた。 しかしその瞳をまじまじとみて、キルシュはぞくりとした。 上質な玻璃のよう。曇りこそ無いが……ゆったり回るギアの奥。そこには無機物にそぐわない、欲の色が見えた。 形の良い唇を開き、舌なめずり。 潤った舌が上唇をなぞるようには途方もなく官能的で……。とんでもない艶めかしさを間近で見て、キルシュは尚更紅潮する。 今までに、ここまであからさまに欲を出す事は無かっただろう。 面輪があまりにも違う。今目の前にいるケルンは完全に〝男の顔〟だった。 いたたまれない羞恥にキルシュはキュっと瞳を硬く閉ざした。 きっと、唇を貪るように奪われる。そう思ったのに、彼の吐息が耳元を擽ったのだ。「キルシュさ。舌を絡めたキスをしたら俺の《心》を喰えるって想像したの?」 ──可愛い。と、吐息と甘い声が外耳を擽り、背筋が甘く痺れた。 だが、その途端だった。ちゅ。っと、耳たぶを口付けられた──かと思えば、耳を食まれ、ぴちゃりと彼の舌が外耳をなぞる。「ひぅ……!」 あまりに突然の事にキルシュはピクピクと身を戦慄かせる。「やだ、何して……ぅ……」「ん。愛情表現。真っ赤になった可愛い耳たぶが目の前にあるからキスしただけ。弱いの? そんなにビクビクして」 彼にしては随分と甘ったるい声。それが鼓膜を痺れさせる。 「ひゃ……!」 あられもない声を上げそうで、キルシュが自分の口を手で塞ごうとすれば、すぐさま彼の無骨な手に捕らわれた。 そうして、耳を食むのを止めた彼に今度こそ唇を奪われて…&